俺のオヤジが最強すぎて勇者を廃業したんだが

幼いころ、オヤジは俺の憧れだった。
 世界を救う、本物の英雄だったんだ。
 か弱い人々を助け、屈強な魔物をなぎ倒し、魔王の城さえも一撃で消し去った。
 だが……オヤジは、強すぎたんだ。

第一話:勇者の賞味期限

湿った土の匂いと、安物の酒の残滓(ざんし)が鼻をつく。  アステリオは泥にまみれた作業着のポケットを探った。指先に触れたのは、ヴィンセントに頭を下げて借りた、たった三枚の金貨。かつて一国を救った報酬で城が買えた男の息子が、今や明日のパンのために親友に慈悲を乞うている。 「……クソが」  もう何度目かは数えてもいないが、同じ呪詛を吐き捨てた。

 オヤジが魔族を根絶やしにしてから、この世界は「真の平和」を謳歌している。魔物に怯える必要のなくなった人々は、俺たちが流した血の上に胡坐(あぐら)をかき、今や勇者の存在すら忘却の彼方へ追いやりつつあった。    魔王城から帰還して一年後の夏、最強だったはずのオヤジは、あっけなく病に屈した。死神ですら手を出せなかったはずの怪物が、病床で枯れ果てていく姿は笑い話にもならなかった。  あれから十年。俺の人生は、坂道を転げ落ちる石ころよりも速く、どん底へと突き落とされた。  もともと、貴族以上の特権を与えられた勇者を面白く思っていなかった特権階級の連中だ。抑止力であったオヤジが死ぬや否や、掌(てのひら)を返して俺たちを追い詰めていった。かつての仲間たちも、今では日々の食いぶちにすら事欠くほどに落ちぶれている。

「平和なんて、クソ喰らえだ」

 そう呟き、最後の一口の安酒を煽ったその時だった。  掃き溜めのような酒場に、場違いな「手入れされたブーツ」の音が響いた。

束の間の残光

「……おいたわしい姿ですな、アステリオ様。かつての英雄の血筋が、このような掃き溜めに」

 静寂を切り裂いたのは、粘りつくような慇懃無礼な声だった。  声のした方へ、酒場の視線が一斉に集まる。客たちの顔がどこか引きつっているのは、入ってきた男が着ている上質なシルクのマントと、胸に刻まれた「王家の紋章」のせいだろう。

 俺は泥まみれのグラスを置き、ゆっくりと声の主へ視線を向けた。  この掃き溜めにはおよそ似つかわしくない、手入れの行き届いた髭を蓄えた男。彼は周囲の汚物を見るような視線など、まるで意に介さない様子で言葉を継いだ。

「王がお呼びです。明日の十五時、王宮にお越しください」

(……俺を、呼んでいる!?)

 心臓がドクンと跳ねた。  十年間、無視され続け、虐げられてきた。だが、ようやく王は気づいたのか。オヤジが残したこの「平和」を守り続けるために、やはり勇者の力が必要なのだと。

 酒場からの帰り道、俺は十年間味わったことのないような高揚感に包まれていた。  暗い夜道さえも、黄金色に輝いて見える。  足取りは軽く、借りたばかりの金貨三枚の重みすら忘れるほどだった。

「待ってろよ、母さん。ようやく……ようやく、俺たちの時代が戻ってくるんだ」

黄金の遺産

家に着くなり、俺は母が用意してくれていた冷えた料理を口にかき込んだ。  飲み込むことさえもどかしく、酒場での出来事を一部始終、一気にまくしたてる。

「……だから、王が俺を呼んだんだ。きっと、また新しい任務を任せてくれるに違いない!」

 母は、不安とも喜びともつかない、複雑な表情で黙って俺の話を聞いていた。だが、話が終わるとおもむろに立ち上がり、部屋の奥から俺を呼んだ。

「アステリオ、こっちへ来なさい」

 手招きされるまま母のもとへ行くと、彼女は納戸の隅にある、古びた大きな木箱を指差した。

「生活のために、何もかも売り払ってしまったけれど……これだけは、どうしても手放せなかったの。残しておいて、本当によかったわ」

 震える手で蓋が開けられた。その瞬間、ランプの微かな光を反射して、室内が黄金色に塗り替えられた。

「……っ、これは!」

 そこには、かつてオヤジが戦場を駆け抜けた、黄金に輝く鎧と剣が鎮座していた。  日雇いの仕事で毎日目にしている、くすんだ鉄屑とは次元が違う。それは、神々しさすら感じさせる、我が家に伝わる由緒正しき武具だった。

「これはお父さんが使っていた鎧と剣よ。明日はこれを着ていきなさい」

 母は、祈るように俺の手を握った。

「勇者の名に恥じぬように。……いってらっしゃい、アステリオ」

甘い屈辱

「勇者アステリオよ。その由緒正しき伝説の剣で、見事この特大ケーキを切り分けてみよ」

 王の言葉が終わるか終わらないかのうちに、会場は下卑た笑いに包まれた。

「おおっ! あれがかの伝説の剣か。かつて魔王の城さえも一刀のもとに切り伏せたとか。なれば、このケーキはちと手ごわいですぞ!」

 どこからか揶揄(やゆ)するような声が飛ぶが、俺の耳にはもう何も入らなかった。  全身が、屈辱の熱で焼かれそうだ。  昨晩の胸の高鳴りも、形見を磨き上げてくれた母のあの誇らしげな微笑みも、すべてはこの汚物のような連中の「余興」のためにあったのか。

(……視界が、ぼやけやがる)

 奥歯が砕けるほど噛みしめ、自分に言い聞かせた。さっさと終わらせろ。ここに一秒でも長くいてはならない。  俺は一歩踏み出し、黄金の剣を抜いた。かつて世界の命運を切り拓いたその刃が、今は砂糖とクリームの塊へと振り下ろされる。

 手応えなどない。  伝説の剣を汚したのは、魔王の返り血ではなく、どろりと甘ったるいイチゴのソースだった。

「――されば、強敵は切り分けましてございます。これにて失礼いたします」

 精一杯の虚勢を、吐き捨てるように告げた。  背後からは、堰(せき)を切ったような爆笑の渦が追いかけてくる。  城門をくぐり、冷たい雨が鎧を叩いた瞬間、こらえていたものが溢れ出した。

 この屈辱、この痛み。――決して、忘れはしない。

泥の中の再誕

失意のまま、アステリオは雨の降りしきる家路を辿っていた。  王都へ向かうときはあんなに軽く感じた黄金の鎧が、今は鉛のように重く、肩に食い込む。

 途中の小川で足を止め、アステリオは剣を抜いた。  澄んだ水面に、伝説の剣を浸す。刃にこびりついた不快な甘い香りと、赤いソースがゆらゆらと溶け出していく。その様子を、彼は死んだような目で見つめていた。

(……俺は何を期待していたんだ。あんな豚共のために、母さんは……)

 水面に映る、惨めな勇者の姿。  その時、胸の奥をざわつかせる異変を感じた。

 水面の向こう、対岸を歩く「歪な影」がある。  それは、十年前の平和と引き換えに絶滅したはずの、奇怪なフォルム。

「……低級魔族!?」

 喉まで出かかった声を、掌で無理やり押し殺した。  見間違いか? いや、あの禍々しい魔力の残滓、間違いない。  アステリオは音もなく立ち上がると、本能のままにその影を追った。

 やがて辿り着いたのは、森の奥深くに佇む朽ちかけた小屋だった。  胸の高鳴りを抑え、戸の脇にある小さな窓から中を覗き込む。  そこで彼が目にしたのは、信じがたい光景だった。

 数匹の醜悪な魔物たち。それらに囲まれ、中心で無邪気に笑声を上げているのは――ひとりの赤子だった。

暗黒の夜明け

静かに息を吸い、ゆっくりと吐き出す。  この程度の低級魔族を屠(ほふ)るなど、あの泥酔した王の前でケーキを切るよりもたやすいことだ。

 引き戸に手をかけ、一気に踏み込もうとしたその時。赤子の無邪気な笑い声が、アステリオの脳を冷やした。 (待て……魔物が、自分より弱い種族を育てるなどということがあるか?)  あり得ない。魔族は弱肉強食が摂理だ。ならば、この赤子には「育てなければならない理由」がある。

 脳裏に、かつてオヤジが語った伝説の一節が蘇る。 『魔王城を切り裂いた刹那、一筋の禍々しい光が、遥か北の空へと飛び去った――』

「まさか……魔王の、忘れ形見か……?」

 その瞬間、アステリオの閉ざされた心に、暗黒の閃光が差し込んだ。  魔族は絶滅などしていなかった。絶望は、最高の好機へと塗り替えられた。  この赤子を最強の魔王へと育て上げ、再び世界を闇に包み込んでやる。そうすれば、あの豚共も、手のひらを返した貴族共も、再び勇者の足元にひれ伏し、慈悲を乞うに違いない。

「……はは、ははは……っ!」

 腹の底から競り上がる狂ったような笑い声を、口を覆って必死に押し殺す。  アステリオとしての誇りは、今、雨の中で泥に捨てた。  代わりに手に取るのは、黄金を黒く塗りつぶした「欺瞞(ぎまん)」の剣だ。

 勇者アステリオは死んだ。  漆黒の騎士、ヴェイル。その伝説が、ここから始まる。

 俺は顔に張り付いた笑みをそのままに、静かに、そして力強く引き戸を開けた。

勇者の放課後、魔王の出勤

五年が経っても、何も変わらない。  アステリオはいつもの安酒場で、今日の戦果を数えていた。手のひらにあるのは、銅貨がたったの四枚。 「……ふん。低級魔族の討伐なんて、せいぜいこんなものか」  平和に慣れきったギルドの査定は、相変わらず渋い。

 そこへ、床を鳴らす遠慮のない足音が近づき、断りもなく向かいの席に腰を下ろした。  見上げるほどの巨躯。百九十センチを超える大男の名は、ガリウス。かつてオヤジと共に戦った拳聖の息子だ。

「相変わらず、しけた酒を煽ってやがるな」  ガリウスはぶっきらぼうに吐き捨てると、店主に向かって「俺にもこいつと同じ毒水をくれ」と注文した。

「……お前はギルドのオーナー様として、さぞ大儲けしているらしいな」 「ははは! 全くだ。絶滅したはずの魔族が急に湧いて出たもんだから、王都は大慌てよ。各地からの援軍要請が止まらねえ。あのヴィンセントの野郎も、新米兵士の訓練漬けで毎日泣き言を言ってるぜ」

 ガリウスは愉快そうに笑い、俺の顔を覗き込んだ。

「そろそろ『ケーキ切りの勇者様』にも、デカい出番のお声がかかるんじゃねえか?」 「…………っ」  心臓の奥がチリりと焼ける。あの日、黄金の剣にべっとりと付着したイチゴソースの感触が蘇り、俺はそれをかき消すように安酒を一気に飲み干した。

「悪いな。もう行かなきゃならない」 「あ? まだ一杯目だぞ」 「ここはお前のおごりだ。……オーナー様なんだろ?」

 背後でガリウスが「おい待て、この守銭奴!」と叫ぶ声を無視して、俺は夜の闇へと踏み出した。    さて、ここからは「勇者」の廃業時間だ。  一刻も早く北の絶界宮に戻らねばならない。なにせ今夜は、未来の魔王様への「読み聞かせ」の担当日なのだから。

 長い夜が、始まる。

絶界宮の、騒がしすぎる夜

絶界宮。エリュシオン大陸北方の凍土に、俺がノインのために築き上げた魔王の城だ。  門の前にテレポートした時、俺の姿はすでに「勇者」ではなく、禍々しい漆黒の鎧に包まれていた。誰も、この『ヴェイル』の正体が、銅貨四枚のために泥を這う男だとは知らない。

 門をくぐった瞬間、血相を変えた魔物が滑り込んできた。 「ヴェイル様! 一大事でございます、早くお戻りください!」  ノインの育児係を担当している上級魔族――グリルだ。

「……落ち着け、グリル。どうした」 「ノイン様が……っ!」

 言い終わる前に、ドォォォォォン! と凄まじい轟音が響き、目の前の監視塔の一つが派手に消し飛んだ。  頬をかすめる衝撃波。俺は思わず天を仰いだ。……ああ、あの塔、昨日直したばかりなのに。  肩に食い込む鎧の重みが、一気に三倍になった気がした。

「お休み前の読み聞かせをしていたのですが……ノイン様が『人間の絵本を読みたい』と申されまして。我ら魔族には人間の文字など読めません。ヴェイル様ならばどうにかなるのではないかと……!」

 グリルが泣きつくのと同時に、また一つ、離れの塔が粉々に砕け散った。  幼いながらも、さすがは魔王の直系。これ以上癇癪(かんしゃく)を起こされたら、せっかく建てた絶界宮が明日には更地になりかねない。

「……分かった、行く。グリル、お前は瓦礫を片付けておけ」

 俺は重たくなった鎧を無理やり動かし、悲鳴のような金属音を響かせながら、ノインの部屋へと向かった。  かつて魔王の城を吹き飛ばしたのはオヤジだったが、今、自分の城を吹き飛ばされているのは俺だ。皮肉にもほどがある。

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